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2021.10.29 【ボール スタンダードの黎明_ボール・タイム 】

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当時アメリカの鉄道網は急速な発展を遂げていましたが、太陽の位置を基準にオハイオ州だけでも17の異なるローカルタイムが用いられており、さらに各鉄道会社が独自に定めていた「公式鉄道時間」は70にものぼりました。時間管理の方法はさらに杜撰で、学校のベルや工場のホイッスル、教会の鐘などを基準に時刻を決めていた駅も少なくありませんでした。彼らが用いた時計にしても、懐中時計から目覚まし時計までさまざまでした。結論を言えば、アメリカ全土を支配しようとしていた鉄道事業に携わった全員が、不正確で、認識の異なる時刻をもとに、列車の運行を管理していたのです。すべての事柄が、列車運行時における標準時導入の必然性を示唆していました。

では“キプトンの悲劇”に際し、鉄道会社の側から原因調査の全権を委任されたウェブスター・クレイ・ボールとは何者だったのでしょうか?

1847年10月6日、オハイオ州フレデリックタウンの農場に生まれたウェブ スター・クレイ・ボールは、タウンシップの学校で教育を受けた後、時計職人ジョージ・ルーインの見習いとして職を得ました。見習い期間を終えた後は、ケースサプライヤーのジョン・デューバーなどのセールスマンとして、全米を旅することになります。当時一般的に用いられていた太陽時は、旅行者であったボールを大いに悩ませたに違いありません。例えば100マイルほども離れた街では、時計が指し示す時刻は6分も異なっていたのですから。

セールスマンとして旅を続けたボールは、自らの宝飾時計店を開店する場所を探し始めます。1879年にボールはその地をオハイオ州クリーブランドと定め、以前に店員として働いていたウィットコムとメッテンの株式を購入。ビジネスパートナーと共同で「ウィットコム & ボール・ジュエリー・ストア」を出店します。程なくして彼はウィットコムの全株式を取得して「ウェブ C. ボール カンパニー」を設立します。

 旅行者として太陽時の曖昧さに悩まされたボールは、1883年に標準時が制定されると、それをすぐさま自身の宝飾時計店に導入しました。店頭に建てられていた街路時計は、ワシントンD.C.の海軍天文台が発する時報に合わせられており、店頭にはクロノメーターを飾りました。クリーブランドの市民が、ボールの時間に自らの時計を合わせただけでなく、北オハイオのあらゆる地域で「ボール・タイム」という言葉が、正確な時間を意味する代名詞となります。後にボールはペンシルバニア州から、クリーブランド地区とピッツバーグ地区の主任時計検査官に任命されており、1888年6月18日には、時計検査員に対する検査指示書(内容はほとんど改善要求書である)が提出されています。しかしこの検査指示書が顧みられるのは、不幸なことに“キプトンの悲劇”の全貌をボール自身が解明した後のことでした・・・

To Be Continued…

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